第二次世界大戦の勃発に伴い、インドで生まれた妹を含め家族7名で帰国して、神戸に住むことになった家族のなかで育った私は、子供の頃は『ターザン』に憧れ、また、海外生活をすることが夢でした。
神戸の大学を卒業後は、大手貿易商社に入社したかったのですが、当時IBM社の『パンチカード・システム』を使っていた団体で働いていた父から、“IBM社のシステムは大変面白い、有望な会社でもあり産業だ”という話を聞き、日本IBM社の大阪営業所にセールマンとして就職しました。入社から4年後にアメリカに留学するまでに、一般企業向けの汎用コンピュータ発売等々があり、“コンピュータ産業の将来は、ますます有望だ”と確信したことから、子供時代から念願だった海外移住を決心しました。
まずは、経営修士課程のある100校以上のアメリカの大学に、月謝免除と奨学資金の援助を依頼して、ボストンカッレジで経営修士号を取得。その後も、どうしてもアメリカに残りかったのでUCLAの博士課程に入学しました。が、同年に移民法が変更されたことから、IBM社のサンホセ開発事業部で、『OS/360』開発のシステムプログラマーとして就職しました。それから5年後には、IBM社の『360システム』の生みの親の一人であるジーン・アムダール博士が設立したアムダール社で、当時関係の深かった富士通との交渉窓口を担当。
この頃はまさに、日本のコンピュータ産業のはじまりの時期であり、アメリカのコンピュータ産業の発展がはじまった時期であり、また、シリコンバレーの揺籃期でもありました。
シリコンバレーに住みIT産業に従事してからすでに35年以上が経過しました。
IBM社、アムダール社、メモレックス社と5年ごとに仕事を変えてきましたが、その後の20年間は独りで、アメリカのスタートアップ企業を日本の企業に紹介し、製品の販売、技術移管、資本関係等々の協力関係を仲介する仕事を、自分の天職と信じ、心底から愉しみながらやっております。
その間、多くのユニークな人たちとの出会いがあり、その方々と一緒に仕事をすることを通じて、“リスクをとって失敗することは許される。リスクをとらずに何もしないのは許されない”というシリコンバレー魂を学びました。そして、“好きこそ物の上手なれ。“You
live only once, you might as well enjoy it. (人生は一度しかない。愉しく生きなくっちゃー)”をモットーに、仕事、遊び、親しい友人との交友等々の愉しいことに、せっせと励んでいます。
天職だと神に感謝しています。
まだ行っていない処に行きます。
そのためには、120歳まで生きる必要がありますが‥。
『Netscape社』が新規上場をしたとき。
自分、自由な時間、家族、友人、愉しみ。
ターザン。
私たちが子供たちに期待したのは、「自分たちで責任をもって決め、行動するように」ということ。また、「大学まではお金を出すが、あとは貴方たちの人生」だということです。
IT産業の揺籃期からの仕事において、「飯の種」+「便利で不可欠な道具」。
消えません。もし消えたとしても、それに換わるものが出てきます。
自分にとって愉しい仕事を見つけること。
私は仕事に関する本は読みませんが、しいて挙げるならば、
『失礼ながら、その売り方ではモノは売れません』林 文子著/亜紀書房]
ちなみに、私の仕事は“私を売ること”だと思っています。
大学卒業後、日本IBM社勤務を経た後に移住を決意し、1950年代に渡米。『ボストンカッレジ』『UCLA』に学んだ後に、日米両国のITビジネスに深く携わり、1981年にスタートアップ企業のコンサルタントとして独立。
以後、シリコンバレーを拠点に、日米両国にまたがる幅広いネットワークを生かして、IT関連のスタートアップ企業をクライアントに、日米間のビジネスをネットワークするためのトータルサポート(製品の販売・技術移管・資本関係等々に至るまで)を行っている。